「 22年間かけて探した真実の愛のカタチ 」

 

ジュエリ-や絵画に組み込んでいる、不思議な三角形のカタチを2015年に発表して

1言で22年間かけて探したと題しても、伝わらないかなと感じ

これまでの生まれてから2015年までの人生について書き上げました。

 

 

たった1つのデザインを生み出すまでの長い長いお話ですが、

芝田じゅんの発信する波動に共鳴してご縁があった方に、芝田じゅんを知って貰う為に。

 

 

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私が生まれたのは東京都内の警察病院。
私の父親の仕事が警察官だったから、だからその仕事の施設を使って私は生まれたんだ。
名前は、生け花の某団体の会長がつけてくれて、6月生まれだし世界で羽ばたくように

世界共通語であるJUNE、日本語ではじゅん。会長が好きだった画家「中原淳一」さんの、

じゅんを取って名付けて貰ったんだ。

その会長は美智子妃殿下にも生け花を教えていたような方だったから、そんな方に

名前を授かった事は今でも誇りを持っているよ。大人になって自分が花と絵画を仕事に

自然としていたのは、この時に決まっていた事だったのかも知れない。面白いね、宿命って。

父親は、警察学校もトップで卒業、20代ですぐに幹部。いわゆるエリートコースまっしぐら。
彼は努力と集中力と引き付ける力がかなり、強力だった人みたいだったんだ。
そんな彼に、私が生まれた年にアメリカのロサンゼルスの企業から、「こっちで仕事をしよう。」と引き抜きの
話が入り、若さと野心が強かった彼は警察官を辞めて、奄美大島出身の母親、3つ年上の私の姉、
生まれたばかりの私を引き連れてアメリカへ。
奄美大島の小さな集落出身の侍が巨大なアメリカへ挑戦しに行った。私が生まれた年はそんな大変革が
家庭で起きたんだ。これが、私の生まれた頃の背景だよ。

 

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家族を引き連れてアメリカに渡った父親は、引き抜きがあった企業に半年お世話になった
あと、すぐに独立。日本で警察官だった彼が20代でアメリカへ渡り、半年後には
貿易会社を作るというハングリー精神。
そんな父親はロサンゼルスの中でも高級住宅地であるオレンジカウンティという場所に、

大きな家を購入したんだ。その家には暖炉があって、ベットには天蓋がついていて、庭にはプール、

庭の先にはゴルフ場があって私の遊び場はその巨大な芝生であるゴルフ場。
クリスマスには屋根一杯のキラキラ輝くイルミネーション、本物のモミの木が毎年暖炉脇に

飾られるという、父親のお陰で普通に裕福なお嬢様の生活を、

物心ついた時にはさせてもらっていたんだ。

そんな私がどんな子供だったかというと、言葉を話すよりも先に鉛筆を持ってひたすら

絵を描いていて3歳で絵本を書き上げたという天才!だけど、言葉を覚えるのは物凄く遅くて、

というか覚えないバカ!
母親が病院に連れて行き異常がないか検査をさせようとしていたくらい言語については

能力がなかったんだ。それに加え父親が日本からの来客者を沢山家に連れて来るから、

それが面倒で言語能力がない上に日本語を話せないフリをしていたから余計に覚えない!
なんで、そんなに言語を遠ざけていたんだろう。お陰で今も、言語能力が一般の人の
半分以下。うーん。。。

家庭環境はというと、ハングリー精神が強くまだ20代の若さで大きな勝負をしていたからかな
ストレスがあったのかな、そこはわからないけど父親はほとんど家には帰らず、他に家庭を作り、

子供も作り、、、、同じく20代の母親は、知らない国の知らない

場所で1人で子供を2人抱え、育てている現実が何年も続き彼女の精神も極限に耐えきれない

状況になっていて、ある時一大決心をしてね。日本に逃げよう。

彼女は、父親に内緒で日本帰国の準備を計画はじめたんだ。

これが私が6歳の時の背景の話だよ。

 

 

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「じゅんちゃん、起きて。」
ある朝、母親に起こされて。
「日本に帰るから。」

え???

私が小学校1年生のある朝、カバン1つ持った母親と姉が立っていて、寝ぼけながら車に乗り、

何が起きているのか分からない状況の中これが、最後のロサンゼルスになるの?と、、、

車の窓から町並みを眺めていた。

母親としては、計画的なモノだったのだけれど子供の私には知らせてなくて突然の両親の離婚、

そして突然の日本行き。学校の友人にもバイバイが言えず自分の国から
離れたショックは大きかったな。

だけど、ゴタゴタ続きの両親はそれどころではなくカバン1つに、子供を両手に抱え

日本に帰国した母親の潔さ。
今、自分が大人になり当時の母親の状況だったら、どんな選択をしていたのだろうと考えたりするよ。
今でも、最後に車から見たロサンゼルスの光景は記憶に残ってる。

1夜にしてお嬢様育ちだった私が家なき子となり、初めて歩いた日本の大地は長崎県。
親戚の家に3ヶ月の間、居候をさせてもらったんだ。
長崎県では、すぐに移動する予定だったし日本語もわからなかったから、学校にも行けなかったけど
子供ながらに環境を必死に受け入れようとしていたのか、近所に1人暮らしのオバアチャンがいて
そのオバアチャンと仲良くなって折り紙を教えてもらいながら、日本語を教えてもらっていたんだ。
日本語はね、本当に難しい。今でもこんな風に言葉を並べてるけど、難しいね。

良くも悪くも、人生って一瞬で変えられるんだって事を体感した時期。

 

 

 

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3ヶ月の長崎滞在を終えて、次は広島に移動したんだ。
広島で滞在させて貰った親戚一家には、お兄さんや
お姉さんがいて物凄く大切にしてもらえた。

いつも、時間が出来てはあちこち遊びに連れて行って
貰って毎日が楽しくてしかたがなかったんだ。
遊んで貰えない時は、日本の少女マンガの絵をひたすら
書いて絵の練習をしていた。
日本のマンガのクオリティーの高さにびっくり。
凄く勉強になっていたなあ。

あと、びっくりしたのは広島の滞在予定が半年だったから
小学校に思いきって入ったのだけれど、みんなが日本人
だった事が衝撃だったんだ。当たり前の事かもしれないけれど、ロサンゼルスは多国籍文化で

色々な人種の人がいて学校も色々な国の子供がいたから日本人しかいない環境に違和感を感じたんだ。
あと、その小学校では校庭は裸足で過ごすのがルールで
給食が終わると一斉に生徒が校庭に出て「石拾いの時間」
っていうのがあって、足の裏を怪我しないように石を拾っていた。ロサンゼルスではそういう発想にならない
習慣だったから、これも衝撃的だったな。

だけど、なんかその時間が楽しかった思い出があって、
担任のユバ先生がその時間になると、石を拾いながら私に日本語を教えてくれる時間でもあったから、

凄く嬉しかったし、そこで大分覚えられてなんとなく授業の内容がわかるようになってきたんだ。

学校に友人も出来て、みんな仲良くしてくれて、楽しい学校生活を送っていた、
そんなある日。。。

担任の先生から呼びだしを受け、どうしたんだろうと
校長室へ向かうと、そこにはアメリカにいるはずの
父親が立っていたんだ。
まだ、子供だから大人の事情とかわからなくて、素直に
嬉しくて父親に抱き着いて離れなかった。
今でもその時の事は1コマ1コマ、父親の臭いまで覚えているよ。
まさか、これが最後の父親との触れ合いになるとは思いもしなかったけど、

結果的にそれが最後の触れ合いとなったんだ。

 

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小学校2年生の時、東京行きが決まったんだ。
楽しかった広島の半年間にサヨナラを言い親子三人新幹線に乗り込んだ。

家は、東京に住んでる親戚の家に少し滞在した後に、たまたま空いていた団地に

住みはじめ、ようやく親子だけの3人の静かな生活が始まった。
といっても、手提げ袋1つでアメリカから移動してきた訳だから何にもなくて洋服も

いつも同じ服ばかり着ていたような状態で。
だけど、そんな中でも母親が、運よく大きな病院に勤務する事が決まり。

これで、安定した生活も少しずつ出来るって安心したから私と姉の小学校行きが決まり、
小学校2年生から、いよいよリアルスクールライフが始まったんだ。

広島とは違い、まず受けたのは「人種差別」日本人なのに外人としての扱い。

そりゃあ、日本語下手だし外人の感覚だけどさ。。。
じゃあ、日本人になってみせる。
ところで日本人ってどんな人種なんだ?

そんな問いを繰り返してしばらく過ごして自分なりに色々調べてみたんだ。

そして、この人種は「道」がつく人種で、「道」がつくものを極めていけば日本人になれるんだ。
そういう答えにたどり着き始めたのが「 剣道 」

学校のない土曜日、日曜日は朝から稽古。
痛いし、臭いし、暑いし、寒いし、先生が怖いし、、、

日本人って大変な人種だなあ。と、3年間は面白いと思ったことがなかったけど、意地と根性、

信念だけで乗り越えていた。だけど、3年経った時に空気を操っているような不思議な感覚が

見えてきてやっと「道」の感覚が掴めてきてね。
黙祷の感覚も掴めてきて、静と動の違いを体で学ばせて貰えたんだ。
この感覚が掴めてきた時に他の「道」の世界も体験したくて、書道を始めたんだ。
絵を描いていたから、上達が早くてすぐに大会で賞を受賞。墨の世界はすぐに感覚を掴めた。

目指せ日本人!

 

 

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小学校低学年の頃は、学校が終わると母親が帰宅するまでの時間は

福祉施設にお世話になっていたんだ。簡単に言うと訳あり小学生の為の施設。

片親、障害者、DVを受けている子、、、色々な子供が集まっていて色々と見せられて

子供ながらに大きなカルチャーショックを受けたんだ。

元々がアメリカでお嬢様暮らしをしていたから、目の前の環境を受け入れるのがとても大変だった。
だけど、そこにいた先生達が深い愛情を注いでくれていて1人1人を真剣に受け入れてくれていた。

そのお陰で学校よりも、その施設が面白くなっていて先生や友人と竹馬やベイゴマ、

剣玉、凧揚げ、、、色々な日本の遊びを教えてもらって楽しい毎日を過ごせたんだ。
もちろん、得意の絵も沢山描いていて、特に大好きな壁画をあちこちに描いて先生に怒られていた。

この施設で、沢山喧嘩もしたし、泣いたし、笑ったし、喜んだ、天真爛漫の本性を発揮。

いつか、大人になったらこういう施設を楽しい大きなお城にする、

って小さな体でおおきな夢を抱いていた。

大人になった今、様々なボランティア活動をさせてもらっているのは、

この頃お世話になった先生達への恩返しもあるんだ。

もちろん、大きなお城の夢も捨てていないよ。

 

 

 

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小学校の中学年から高学年は小さな戦国時代だったんだ。
どうしたって、言葉のハンディキャップがあるから言葉の必要な世界では負けてしまう。
人種差別を受けていたから、どうしても何かしらで勝ちたくて言葉のいらない世界を

全部1番を目指したんだ。体育、音楽、図工、道徳、家庭科、学級委員長、班長、、、

言葉のいらないジャンルは全て制覇していつも、人前に出る事をやって、とにかく目立っていた。

その代わり、言葉のいる世界の成績はいつもビリで成績表が天地にはっきり分かれていて

分かりやすい結果を出していたんだ。

音楽や図工の先生からは、凄く可愛がられて誰が見ても特別扱いで音楽コンクール、

鼓笛隊、合唱団、いつも指揮者として前に立ち、絵や作品はいつも入選、

上野の美術館へ飾られたりもしていた。

芸術関係の先生達は私の強力なサポーターで、家に招待してくれてピアノを教えてくれたり、

プライベートにまで私を向かい入れてくれた、本当にありがたいサポートだったな。

今思い出しても、個性が強い変わった先生達だったけれど。

そして、小さな戦国時代を生き抜き誰も人種差別をしなくなり、一目置かれる存在となれたんだ。
小学校を卒業する時には学校の代表として選ばれて中学校入学式の時に、

全校生徒の前で挨拶する事にまでなった。

出来ないことを埋めるのではなく、出来る事で突き抜ける。

人生を歩く上で、勝つ術をこの時に学んだんだ。

 

 

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中学校入学の時に目立ちすぎた為か、、、
入学してすぐに先輩からの呼びだしがあり、怖い儀式を受けた。
これは、小学校とは違う空気の戦場が見えてきて、中学校ではなるべく目立つことは

やめておこう、そう思った。だけど、その時にはもう遅くて、、、
小学校で撒いていた種が芽を出してしまい、立候補をしなくても推薦制度で

生徒会やらキャプテンやら、、、気がついたら演説や会議の日々を過ごしていた。

そうしているうちに、先輩や他校からの威圧が強くなり、自分の校内に貼られたポスターに落書きや、

破かれたり、上履きを隠されたり、すれ違う時に睨まれたり、、、
本能的にこれはどっちとも仲間になってた方が生き延びられるのかもと思い、

昼は生徒会役員として夜は不良仲間と遊び、2つの顔を持った中学生になった。
けれど、夜になったら遊んでたから勉強をする時間もなく成績はどんどん落ちてしまい、

今度は先生からの呼びだしが増えて、挙げ句の果てには中学校2年生で

どこの高校にも行けないくらいの成績になってしまったんだ。

そして、どんどん不良仲間の方と気が合うようになり生活がガラリを変わってしまった。

それでも、小学校の時に技術を磨いていたお陰で、相変わらず努力をしなくても

芸術や体育などの教科ではトップでいられて、校長室にはいつも私の絵画が飾られていたんだ。

だから、校長先生には怒られなくてすみ、芸は身を助けてくれていた。
不良の生徒会役員。
そんな私を大人達はみんな寄ってたかって、力ずくで私を整えようとしていたけれど、

自分ではこのギャップが面白いと思っていたんだ。

 

 

 

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不良仲間の友人が自殺で他界。
もう1人の友人がリンチ殺害埋め立て事件。
そして、もう1人の友人が自分の母親に殺されかけた事件。

受験の前に重い事が重なり、人生について生きる事について、自分の進路について

真面目に考えたんだ。

そして、苦労心配ばかりかけた母親の大切さが心に染み渡り親孝行をしないとって深く思った。

そこで高校に行けないくらいの成績の私がたった半年しかない時間でトップ3の高校に入ろうと

無謀な計画を立ててしまったんだ。しかも、経済的に塾とかに行けなかったから独学。

まずは、見た目から入ろうと不良の容姿から優等生気取りの身だしなみになり、

学校の授業はもちろん、食べているとき、お風呂にはいっているとき、歩いているとき、

何をしているときも常に勉強を始めた。
寝ているときもテープレコーダーを流して脳にインプットしたり、頭がおかしくなるくらいに

半年間猛勉強をしたんだ。そして、半年後の受験戦争へ突入。

成績は先生達が唖然とするくらい伸びて、トップ3の高校をギリギリ受かる所まで持ってきた。

だけど、ギリギリだから1つレベルを落とさないとちょっと怖いよ。って担任の先生から

言われたけど、受かるっていう絶対的な確信があったから、一発勝負で行きます。

って宣言したんだ。

もしも落ちたら、この半年間の努力が水の泡。1番下の高校に入らないと行けなくて

本当に大勝負だった。ギリギリまで滑り止めの高校を勧めた担任を押し退けて、受験を迎え。

結果は、、、見事、合格。

見たか、ただの不良じゃないのさ。

母親孝行で受験した高校だったから、母親が喜んでくれたのが1番嬉しかった。

 

 

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高校生活が始まり、色々と決めなくてはいけない時期に
クラブ活動の選択があった。
普段は流される事のない私が、どうした事か、、、
新しく友人となった人達がみんな陸上部へ入部する流れ
となりなぜか、、、私まで流されて入部した。
マラソンが大嫌いなのに見学をしたらそのまま契約。
ああ、、、もう逃げられない状況に。

仕方がないから楽しみを見つけようと、見渡したら
3年生の先輩で凄く優しい笑顔の人がいて地味だし口数少ないし目立つ人ではなかったのだけど、

なぜか惹かれてしまい初恋をした。

放課後、毎日その先輩に会う事が楽しみで陸上自体は全く
興味がなかったのだけれど、その先輩に見てもらいたい為に一生懸命に

陸上の成績を上げる努力をした。

恋の力は偉大で、、、

半年経った時、歴代1位の記録、大会に出ると新聞に名前が載るようになってしまい、

気がついたら学校の期待の星の選手となっていた。

そして、恋の熱さと私の活躍にたいするみんなの期待が絶頂になった時、

3年生の先輩の部活が引退時期となり今後、どうしてよいか分からなくなったんだ。

これは思い切って告白しかない。と、、、人生初の告白。

目も合わせる事ができなかった先輩を呼び出し放課後
夕焼けをバックに愛の告白をした。

「俺、受験で忙しいから。」と、見事振られた。

その一言で、好きでもない陸上部に行く意味もなくなり、
退部を決意した上、3日間ショックで寝込み学校を休んだ。

そして、期待の星だった選手が部活を止めた後の体育教官室のバッシングは凄く、

体育の授業はもちろん体育大会にも文化祭にも出れる空気ではなく、全て欠席した。

体育の授業の時は教室の壁に絵を描く時間に勝手にして
ひたすらマジックで壁に絵を描いていた。
やっぱり、壁画を描くのが好きだったみたい。

でも、今考えると壁一面に絵を描いてたのに何で怒られなかったのか不思議でしょうがない。

これが初恋の時の背景のお話。

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中学、高校生活の母親との交流の中で、1ヶ月に1度オシャレをして

1流の場所で外食をする事があった。
中学校の頃から大人になったら絶対1流の女性になるんだって決めていたから、

その準備で毎月フランス料理をメインにイタリアン、懐石料理、様々な場所に連れて行って貰っていた。

母親も生活が豊かじゃなかったのに、よく連れていってくれたと思う。

いつも、テレビで綺麗な女優さんの立ち振る舞い、マナーとかを研究して

一流の女性とは何か?を考えていたんだ。

ある時、母親とのその食事の時に、高校1年生の秋に初恋の先輩に振られ

部活の退部で起きた打撃で学校生活に溶け込めずにいたから、

これから先の人生を考えながら食事をしていた。

高校生活も最初の出だしから転んじゃったし、これから一体どう過ごしたら良いかな。。。

スープを飲みながら、ふと思いついたのがダンスの世界。
当時、ZOOというダンス音楽のグループが流行っていて、直感的に次はあの世界だって決めた。

スープを飲み終わる頃には頭の中はダンスの事で一杯だった。

よーし学校内はもう諦めて、学校外で活動をして極めてみよう。
高校1年生の秋のお話だよ。

 

 

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ZOOが踊ってるのはヒップホップというダンスだった。

今では、ヒップホップは当たり前の時代だけれど、当時はアンダーグランドの

世界でラップやR&Bとかもメジャーに出ていなくて情報という情報を集めるのがとても大変だった。
時代としては、サーファーが流行っていて流行に敏感な女の子はほとんどがボディーボードや、

ルーズソックスとミニスカート、金髪のメッシュヘアーのコギャルファッションで周りには

ダンスをやっている人がいなかったんだ。

考えても仕方がないから、ダンサーが集まる場所に行ってみようと、

まだ未成年だったけれども当時は身分証明の確認が厳しくなくてクラブ(昔のディスコ)

に入る事もすんなり出来た。そのたまたま入ったクラブは、どうやら芸能人達の

遊び場所だったみたいで、テレビで観たZOOのメンバーもいたし色々な芸能人がいたんだ。

そこでは、沢山の大人のダンサーが集まり飲んで踊ってたり、、、

いきなり大人の世界に飛び込んだ新鮮な感じで凄く刺激的だった。

それからは、週末になるとそのクラブに通いながらヒップホップの情報を入手して、

仲間を増やして行ったんだ。

クラブで出会ったダンサー友人に外国のミュージックビデオを借りて1コマ1コマビデオを

見ながら外国のダンサーの動きを確認して夢中で振り付けを覚えたり、技を磨いたり、、、

寝る時間も作らないでずっと練習していた。

そして、上達するにつれて初めて自分の「言語」を手に入れたようなこれまでに

味わった事がなかった「自由と解放」を手に入れた感覚があったんだ。

日本語も、英語も中途半端で言語障害と言われてたから、言いたいこと、

伝えたいことが体で思い切り表現が出来るようになって本当に幸せを感じていた。

沢山の場所で練習しているうちに様々な仲間が出来はじめてイベントにでないかとか、

ショーをやってくれないかとか、深夜番組で踊ってきてとか、、、
高校生なのにダンスの専門学校で授業をする事にもなり、

高校2年生の秋にはダンスで仕事をしていたんだ。

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高校生活後半は、ダンスの仕事が忙しくなり家に帰れない日々が続いていて、

鞄にはいつも歯ブラシ、洋服類、化粧道具、そして空気で膨らむ枕を持ちながら移動していたんだ。

ダンスチームを3つ、レギュラーイベントも多数、東京、千葉、群馬、神奈川、、、

あちこちに移動しなくてはならないスケジュールで深夜しか練習の時間が取れなかったから

終電から始発まではスタジオや野外で練習。
始発の電車で学校に行き誰もいない早朝の校舎で空気を膨らまし自分の机で爆睡。

起きる頃には授業が終わってる。だけど欠席にはならないな。

色々考えた結果学校を卒業するにはこうしないといけなかったんだ。

我ながら名案だったと自画自賛していたよ。

学校の先生とかは、メディアに載ってたからどれだけ頑張ってるか分かってくれて

応援してくれていたのだけど、、母親だけは悩ませていた時期でもあった。

大学も進学する気配もないし、どこで何をしているかわからないし、

帰宅もしない連絡もしないから当たり前だよね。

そして、ある時悪いなと思いじっくり母親の話を聞いて見た。

すると、当たり前に「大学に行ってほしい。」と。

ただ、もう自分がダンスで仕事をしていたから大学生の生活とか興味なかったし、

ダンスでトップになることしか考えていなかったし、ダンスの学校となると、

すでに自分が講師として教えていたから生徒にもなりたくなかったし、だからといって、

芸術は人から学ぶものではないと考えていたから芸大に入る事も考えなかった。

悩みに悩んだ末、大学と高卒の間をとって2年間の専門学校に行こうと決めて

それを母親に伝えたら渋々了解してくれて、専門学校を探すことになった。

そこで選んだのが、ビジネス専門学校のリゾートビジネス学科。
リゾート施設やリゾートホテルに憧れがあったし、遊びを学べるなら楽しいかも。

そんな安易な考え方で決めてしまった進学で、

親孝行なのか親不孝なのかわからない進学の道だったな。

 

通い始めた専門学校は予想通り遊びの学校だった。

キャンプのやりかた、リゾート施設の仕組み、ホテルの仕組み、ディズニーランドのカラクリ、、、
こんな事を授業にしちゃうんだって驚いたけど、一番驚いたのはディズニーランドの

着ぐるみがベルトコンベアーでクリーニングされている抜け殻の状態を見たとき。

驚いたというか、夢が崩れるような衝撃的な舞台裏を見学させて貰った。

そして、専門学校に行きながらもダンスの仕事をしていて順調に進んでいたとき、

ダンスのショーにカポエラというブラジルの格闘技を技で入れようと言う事になり

空中回転などのアクロバットの練習をしていたその最中に、高いところから落ちてしまい

足を骨折ギブスと松葉杖の体となり、しばらくお仕事が出来なくなってしまったんだ。

ショーも近いしどうしようと悩んでいた時に、イベントの主催者から、

じゅん、踊れないならマイクを持ちなよ。じゅんの喋り方が面白いから。

と言われてマイク?言語障害の私が???と意外な展開になり、流れで松場杖をしながら

イベントで司会業をしはじめ、ラップまで歌うようになった。

そんな転換があり、専門学校の2年間でダンサーの仕事ではなく司会や歌の世界が定着していて

沢山のショーやメディアに取り上げられるようになったんだ。

 

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専門学校の卒業直前、大きなレコード会社から声をかけてもらいメジャーデビューの話が進んでいた。
そんな時に自分の不注意で1つの大切な魂がこの世からきえた事故があったんだ。

それまでも、様々な友人の死に直面はしたけれど、この時だけは

あまりにも重い出来事でショックのあまり1ヶ月体の震えが止まらず、過呼吸を繰り返し、

精神状態が極限に破壊して最後には自殺未遂を繰り返してしまったんだ。
そんな自分を友人がいつも側で守ってくれてずっと、自分の家で面倒をみてくれていたんだ。
母親にはそんな自分の姿は見てほしくなくて家には帰らないで、学校も行けなかったし、

仕事も全部キャンセルして、やっと手にしたメジャーデビューのチャンスも逃がしてしまったんだ。
自分の状態がそれどころではなく、どうやって生きれば良いか、

そもそも何で生きないといけないのが分からず、死にたい事だけで頭が一杯だった。

そんな最悪な状態が続いたある日の朝、太陽を見ながら死ねないなら現実逃避を現実にしよう。

日本にいると辛いから海外に逃げよう。専門学校を卒業してお金を貯める為に

アルバイトをしながらビザを取り、20歳の時にオーストラリアへ渡ったんだ。
手に持ってたのは、食べていけるために絵を描く道具のエアーブラシのセットと洋服少しだけ。
大きな十字架を背負う人生が始まったようなそんな時期だったよ。

 

 

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オーストラリアでの生活は太陽が昇る時間から海に入りサーフィンをしてお昼頃から

絵を描いて太陽が沈む頃には寝る支度をするパターンだった。

その頃に描いていた絵はエアーブラシを使ってクリスチャンラッセンの真似をしていた。

どうしてかというと、私が滞在していたのがオーストラリアのサーファーズパラダイスという場所で、

海のリゾート地だったから、そういう場所ではラッセンの絵は観光客うけが良くて生き延びる為に、

描いては道端で売り歩いていたんだ。ラッセン様様だね。

日本での出来事の精神的ダメージが強すぎて、あまり人と
関わりたくなくて住居は人が少ない場所にして、イルカが泳ぐ海へ毎日入り、

イルカとばかり遊んでいたんだ。イルカは、サーフィンがとても上手で下手くそな私を横目に

自由自在に波と遊んでいて、そんなイルカと一緒にいる時がなにもかも考えなくて

良い時間で心地がよかったな。

自然と一体化したい気持ちが大きくなり、靴も履かずに洋服も着ないで、

裸足と布1枚を纏うスタイルで東京の自分とは全く違う自分になってた。

そんな生活を半年間続けたある日。
サーフィンで波待ちをするのに太平洋に浮かび、地平線を眺めていたら急に

自分の故郷のロサンゼルスに帰りたい思いが強くなっていたんだ。
オーストラリア行きを決めたときに、本当はアメリカに戻りたくて母親に相談をしたら

母親の猛反対があって諦めてオーストラリアにしたのだけれど、やっぱり帰りたくて仕方がなかった。
母親は私が幼い頃、父親と離婚をして命懸けで私と姉をアメリカから鞄1つで

日本に帰国したのだから、その娘が大人になって自らアメリカに帰りたいと言うのは

彼女の立場からしてみたら辛いし反対するにきまってるよね。

そういう事でオーストラリアに決めた背景があったのだけれど、

どうしても故郷に戻りたくて仕方がなかったんだ。

色々と考えたんだ末に、今みんなは私がオーストラリアにいると思っているから、

それを利用して誰にも内緒でアメリカに戻ろうという計画を立ててみた。そして実行。
次の日には、全財産の30ドルとクレジットカードだけを持ち、

そのクレジットカードの使える枠ギリギリで航空券を買い残りの30ドルの現金片手に飛行機に乗り込んだ。
飛行機の中から海を見つめ、友達になったイルカにサヨウナラ。
先のこととかなんて何も考えてなくて、とにかく故郷に帰りたかったんだ。

 

 

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私、これしかお金ないからこれで行ける1番安いホテルに連れていって。

故郷のロサンゼルスに到着してタクシーの運転手に30ドルをみせながらそう言った。
一文無しとはこういう事を言うのだろうけど、自分は故郷に帰れた嬉しさで自分が

一文無しとは気付いてなかったんだ。そして、運転手が連れていったホテルが

スラム街のど真ん中で浮浪者が集まり、地元の人も近付かない危険地区だった。

タクシーを降りると殺気立った空気で、私はここで死ぬんだってすぐ思った。
子供のころ見たロサンゼルスの街は裕福な地域で、その時のイメージでしかロサンゼルスを

記憶していなかったから、ここは本当にロサンゼルス?とびっくりした。

だけど、来たからには仕方がなく、ジャパニーズ女サムライ、刀も持たずに戦地に突入。

持参している武器は気迫だけ。。。

ホテルのカウンターらしき場所に向かい、そこに座るメキシカンのおじさんに、

私は日本から来ていてお金がないから困っていてホテルの清掃で雇って欲しい。

そのかわり、1部屋貸してと交渉をした。さすがに、メキシカンのおじさんも目が点。
そして、無言でどこかに電話をかけていたから、あ、、、私は売られてしまうと焦っていた。
するとなんと30分待って登場したのが白人の太ったおじさん。

彼は、モデル事務所の社長さんで、メキシカンのおじさんがどうやら無言でかけてくれた先は

このモデル事務所のおじさんの所だったんだ。
その太った白人のおじさんが私を見るなり、一回転してみてというから、

昔訓練していたバクテンをしてついでに踊りも踊って見せた。
そのおじさん的には、モデルに使えるか容姿をチェックする為に

普通に一周してと言ったのだけれど、

元々ダンサーだった私にはバクテンかと勝手に勘違いをしてしまったんだ。
その行動に、殺気立って様子を見ていた浮浪者のみなさん、白人のおじさん、

メキシカンのおじさん、、、皆がこのアジア人はクレイジーだ!とウケてしまい、

何だかよくわからない展開になったけれど、私は助かったみたいだと胸を撫で下ろした。

芸はいつも身を助ける。。。

それから3ヶ月そのホテルに滞在させてもらいながら、
白人のおじさんの事務所の10ドルや30ドルくらいのギャラのテスト撮影で使って貰いながら

99セントのピザや3ドルのチャイニーズフードを食べながら生き延び、

危険地区で生きている人達の人生を見させて貰ったよ。

借りていた部屋は物置小屋みたいな感じで布団もなく、血とタバコで焦がされたシーツが一枚

かかるベッドが1つあり、シャワーも濁った水しか出てこないから、

体を洗ってるのか汚しているのか分からない状態の部屋だったんだ。
ただ、窓を開けるとそこにはすぐ隣のビルが立ち、そのビルの壁には大きな赤い星が

ペイントされていていつも、その星を眺めながらアメリカンドリームを手にいれよう。
そんな思いでワクワクしていた。小学校2年生の時以来、

会ってない父親と同じ夢でカエルの子はカエルってこういう事なんだろうね。

滞在中にはもちろん危険な目に沢山合い、銃もナイフも突きつけられた。

でも、いつ殺されるか分からない、教育も受けたことがなく、

自分の親からドラッグやお酒を教えられたり、自分の父親や兄からレイプされて妊娠してしまったり、、、

そんな環境で生まれ育った彼等の人生の一部を見ていたら自分が

どれだけ恵まれていた人生かを深く理解が出来たんだ。
学校にも行けたし、教育も受けたし、自分の努力で夢を叶える事はいくらでも出来る。
自殺未遂をして現実逃避をした日本での自分の弱さが恥ずかしくなり、

自分自身がちっぽけな人間に見えた。これからは、逃げないで生きよう。

それから、ビザの関係で3ヶ月しか滞在しなかったけど、

ビザを取り直してアメリカで勝負しに戻ろうと決意して日本に帰国したんだ。

21歳の秋頃のお話。

 

 

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「 ただいま 」


オーストラリアにいる娘が、
3ヶ月間音信不通になっていたのに突然帰宅し母親は、とてもびっくりして、

あきれてモノが言えないようだった。

実は、ロサンゼルスに行ってた。ビザを取り直して、
向こうで生きる事を決めた。
例え親子の縁を切られても、自分は向こうで生きる。

そう母親に伝えると母親も、開き直ったのかなんだかスンナリ受け入れてくれて、

「 好きにしなさい 」と。きっともう、私の豪快な行動にお手上げ状態だったのかもしれない。

だけどいずれにしても、話はまとまったから、すぐにビザを取る準備に取り掛かった。

それから、アルバイトをしながら資金を作り3か月後には5年ビザを取れて

再びロサンゼルスに戻る事が出来た。アメリカでの、再挑戦のはじまりだったんだ。

ロサンゼルスに着くなり、日本滞在期間で集中してアルバイトをしながら貯めたお金で、

身の周りの環境を整えて行った。
新しく住み始めた街は、ノースハリウッドといって
地元の芸術家が集まっていた街で、穏やかで平和な空気感が漂う街だった。
予算的に、物件を選べる状況でもなかったけど、運よく天井が高くて天窓がついた、

比較的広めのアパートを格安で借りる事が出来た。そして次は、車。
アメリカの運転免許には、オートマとかマニュアルとかそういうのがなかった。

ド素人の私でさえすぐに受かる、簡単な試験ですぐに免許が取れたんだ。
さて次は車の購入。チラシを見ながら色々吟味していて、予算がないから、値段だけで選んでいた。

その無知識で選んでしまった車がマニュアルのバン。しかも古い中古車で、半分故障していた車。

マニュアルの知識もないし、車にも乗った事ないのに、大変な車を購入してしまったんだ。


この車、どうやったら動くんだろう。
1,2,3,4,5、という数字があるから、順番に動かせばいいのかな。
適当に、動かしてみたらなんと、車が動いてしまい。
調子に乗って、乗りすぎてしまい、、、
そのまま、フリーウェイまで行ってしまったんだ。
日本で言うと高速道路。
本当、バカもほどほどにしておけば良かった。

そして、知らない場所に降りて、迷ってる時にアクセルとブレーキを踏み間違えてしまい、

ストップサイン、料金メーター等の公共物を5本くらい倒す派手な事故を起こしてしまった。

その事故のお陰で、車の修理費用で全財産を使い、
またもや一文無しの身から、アメリカの生活がスタート。

ただ、今回は家と、電話と、お米はあった。
ちょっとは成長したのかな。

 

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来月の家賃も食費もない状態だったから急いで、お仕事を探すことにした。
スーパーマーケットにあった、フリーペーパーを集め片っ端からアルバイト募集広告をみていたら、
ジャパニーズ飲食店のアルバイト広告が見つかった。

そしてすぐに連絡をして、その日に面接をしてもらい、
自分の状況を説明したら、運よくその日から勤務できる状態に。

さらに、一文無しの状況をお客さんが知ると、30ドルの内緒のチップをくれた。
そのアルバイト先では、日本では接点のない面白い人生を歩いてきた友人達が出来たんだ。

みんな、それぞれの夢に向かいながらアメリカに挑戦する男女のサムライ達。

ヨーロッパでモデルとして活躍をしていた人、日本の大きなバレエ団の団長の娘、議員の娘、、、

みんな、個性豊かな人達ですぐに意気投合して毎日が楽しかった。

お客さんも日本から出張などで来る方が来店するから、
日本では接点のない人達と沢山出会えたんだ。
日本の大企業の会長とか、野球選手、芸能人、歌手、、、

日本を動かす代表選手に、まんべんなく会えた感じで本当に沢山の人生と人生観を

学ばせてもらえたとても、刺激的な毎日だったよ。

そして生活も安定しはじめ、好きな洋服も買えるようになってきた時、

ロサンゼルスのクラブ(昔のディスコ。一応説明。)に遊びに行くようになったんだ。
そこでは、フリースタイルと言ってマイクがステージに置いてあって勝手にマイクで、

自由にラップを歌っていいシステムがあってそこで、たまにラップを歌ったりダンスをしに

行ったりしながら、音楽やダンスの友人もつくりはじめて、楽しく遊んでいた。
日本語ラップが珍しかったのか沢山の音楽プロデューサーから

音楽制作を一緒にしようという話が出始め、少しずつ制作をスタート。

その頃、描き始めていた絵は水墨画。
音楽仲間が、墨で描いた漢字や絵を見ると、「SAMURAI」と言い喜んでいたから、

描いてプレゼントしていたんだ。

英語の名前を当て字にして、漢字で描いてあげたりすると次の日にはタトゥーとして

体に入れてくる人もいたから、びっくりした事もあったな。

そんな在る時、音楽仲間と一緒に、当時ロサンゼルスで有名なHIPHOPグループの何百人なのか、

千人以上なのか、、、とにかく沢山のお客さんがいる大きなステージで開催される、

アルバムリリースパーティーに行ったんだ。

ショーの終わり頃に、仲間の1人が私に
「 JUNE、ステージに上がって歌ってきて 」と言ってきて、
私に、そういう事を言ったら本当にやるの分かってるよね?

もちろんだよ、早く行ってきて。

そんなのりで、ステージ前にいた、セキュリティの巨体の人に「私を、ステージにあげて」と頼んだんだ。

すると、
なんだ?このアジア人。とでも言ってるかのように、鼻で笑われてしまい、

ダメだ、この人じゃ話にならないと感じた私が次に起こした行動はなんと。
ステージでパフォーマンスしていたラッパーに
手話で、私をステージに上げてと言ったんだ。

そしたら、そのラッパーは面白がって私をステージに引き上げた。気持ちとしては、

よーし、見たか巨体セキュリティ。ジャパニーズサムライを甘くみるなよ。

ステージには10代から上がってたけど、この時見たステージからのお客さんの人数は

今まで見た事なかった凄い人数で、アドレナリンが全開だった。

そこで得意のジャパニーズラップとダンスを披露して
会場をびっくりさせてきたんだ。
するとそのステージを見ていた知らない音楽プロデューサーがすぐに追いかけてきて、

是非君と音楽を作りたいと言ってきてまた違うプロジェクトで音楽制作が始まったんだ。
それは良かったのだけど、肝心の一緒にその会場に行って、

私にステージに上がれと言った音楽仲間は私が、ステージに上がる前に隣の女の人を

ナンパして会場を出ていて、肝心な私のステージ姿を見てなかったという無責任な出来事のお話。

 

 

 

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ロサンゼルスにあるベニスビーチには、よく遊びに行ってたんだ。

そのビーチは日曜日になるとあちこちからアーティストが集まり出店が出たり、

演奏が始まったり、凄く和やかなビーチで、ある時、出店のカレーをビーチで食べていたら

私の所に黒人のおじさんがよってきて、キミは日本人?ボク、ジャズシンガーなんだけど

日本で有名なんだよ。と言われて。それがただの、ナンパかと思い、、、
へー知らない。多分、私の方が日本で有名だよ。
と、適当な扱いをしたらキミ面白いね。明日、スタジオにおいでよ。とまた意外な展開になったんだ。

着いたスタジオは、某映画の音楽プロデューサーの
スタジオでその映画は大好きな映画だったから凄くテンションが上がったんだ。
そして、プロデューサーの創ってた新曲の音楽があまりにもかっこよくて、マイクがあったから

勝手に合わせてラップを歌ったら彼がとても気に入ってくれて、そのままレコーディング開始。
丁度その頃、別の所ではFOX-TVのメジャーリーグのCMで
日本語ラップを歌ってくれと言う話が入り、レコーディング、映像撮影、、、
気がついたら、いつの間にか音楽三昧の日々を過ごしていた。


そんなある日なんだか、流れのままに過ごしてきたけど、私の本来の使命ってなんだろう。
何の為に生まれて、何の為に生きて、何の為に表現をしてるのか。

20歳の時大切な魂がこの世からさって、ずっと考えていたテーマでそれがまた、

強く出てくるようになり、常に考えるようになった。

何のために生きていて、何のために生かされていて、なんの為にアーティストの人生を歩いてるのか、

なんのカタチを世の中に生み出すべきなのか。

そして、その答えを知りたくて、1歩も外に出る事なくカーテンも開けずに

7日間の長い瞑想をしてみたんだ。スピリチュアルな体験は元々自分の先祖が

シャーマンの家系だったから当たり前に見えないものが幼い頃から見えたり、感じたり、聞こえたり、、、

そういった経験が日常だったのだけれど、

このころから更に強く不思議な宇宙の力を感じるようになっていて、

自分ではコントロールしてないメッセージが降りてくる事がいつもより多くなりはじめてきて。

生活の中でも不思議な事が次々と起こり始め、予知夢も頻繁に観るようになり、

異次元の世界が、より身近な世界になり出したんだ。
23歳になったばかりの時だったと思う。

 

 

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ロスから東に5時間くらい車を飛ばした砂漠地帯に、
インディアンの聖地があるんだよ。
ある時、ヨガやヒーリングをしていた友人に、インディアンの聖地について教えてもらったんだ。
話を聞いた、翌日は予定が入ってなかったから、
早速、夜から出発をしてその聖地に向かったんだ。

砂漠に関する情報は絵本の世界だったから、
(砂漠=熱い)というイメージだけ。
まさか、砂漠が夜になると寒くなるとは考えもせず、着てるのはTシャツだけであとは、

お水しか持たずに向かってしまったんだ。

その聖地に辿り着くまでの道も、もちろん砂漠地帯。
地平線が続く、道のような道でないような
自由と平和と孤独、そして神秘性のエネルギーが強烈に渦を巻いていて、ここは地球なのか、

他の星にきてしまったのか分からなくなってしまった。

目的地へ着くと、そこには色々な種類のサボテンが生えていて見たこともない植物達が、

トゲを発しながら生きていた。1粒1粒の粒子が生きている世界。

都会や街中、家の中、、、人間が生きる場所では必ず何かしらの「音」がある。

だけど、砂漠の中では自分の心臓の音が響いて聞こえるくらい「無音」の世界でね。
たまに吹く風が砂を運び、話しかけてくるような音を鳴らすくらい。
あまりにも、神秘的な空間すぎて時間の感覚がなくなり
気がついた時には、夕暮れになってしまって、
今、車を走らせると道が見えなくて迷うから車の中で一泊することにしたんだ。

完全に太陽が沈み夜の暗闇の中、星の光だけに包まれていると急激に寒くなってきて、

まるで熱帯地から北極へワープしたんじゃないかと思うくらいの寒さだった。
寒さが極限に達した時、きっと私はここで死ぬのかもしれない。と、感じたほどだった。
そして、寒さの限界を超すと、寒さを感じなくなり、思考力も失いどのくらいの時間なのか

わからないけれど、寝てるのか気を失ってるのか、わからない時間が過ぎたんだ。

長い時間がたち、目が覚ます事ができ、あれ?
生きてるのか死んでるのかわからなく朦朧としていた。
そして、ゆっくりと辺りを見回すと、左に太陽、右に月。
夜と朝が同時に、同じ空に映し出されていて。
ゆっくりと、地平線から出てきた太陽の暖かさに救われたんだ。

その、あまりに美しいその太陽を見ていると感動の涙が止まらず20歳の頃始めた

現実逃避の旅はもう終わりだな、もっと鋭く生きようと力が溢れてきたんだ。

「 日本に帰って、自分の表現するべき形をさがそう。 」

それから3か月後には20歳の時、日本に戻らないと決めて海外に出た自分が

3年間の海外の旅を終え、TOKYOの生活を再びスタートしていたんだ。

23歳の秋のお話。

いつかまた、今度はきちんと支度をしてから、この自分の原点のような

聖地の砂漠へもう一度、行こうと思う。本当に、美しかった。

 

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自分が表現するべき形って何だろう。

とりあえず今まで流れのままにやってきた、音楽を一度死ぬ気で自分の力だけでやってみよう。

TOKYOでの、リニューアル私がはじまったんだ。

そして今回の音楽制作はレコード会社に頼らず、全てを自分の手でやってみようという

無謀な決断をしてしまった。

まずは、スタジオ。そして、スタッフ。
新宿にある、一軒家を借りてその中を工事し、
防音設備を整え、機材を本格的な機材で揃えた。
そして、腕のある音楽家と縁があり、インディレーベルを
立ち上げ、毎日のようにレコーディングをしていた。

こうやって、数行で書くと簡単に聞こえるかもしれないが
一文無し状態で、TOKYOに帰国した私、23歳がこの資金を
全て調達して、スタッフを抱えるまでに至ったのは
並大抵の日々ではなかったんだよ。

24時間あるならば、24時間働いて資金を作ろう。
こんな、考えを平気で実行してしまい、本当に24時間
様々なお仕事に明け暮れていた。

帰宅した3時間とかで、レコーディング。お仕事の合間に、歌詞創り。唯一の息抜きは、

隠れ家的だった新宿2丁目のBARでペリエを1杯。お酒を飲むと、

次の仕事に行けないからいつも飲むのはペリエ。
時間もないから、たった5分しかいられなかったけど、その5分が深呼吸の時間でもあったんだ。

こんな生活が数年続き、もちろん心身共にボロボロの状態で1週間に1度は、

過労で倒れて病院に運ばれて点滴。点滴を打ちながらも仕事をしていたから今、考えると異常だった。

ヨーロッパで少し話題になるところまでは何とか持って行けたのだけれど、

自分があまりにボロボロになっていて、何のために音楽制作をやってるのか

分からなくなった頃、ついに体の限界が来てしまい、倒れたまま3か月くらい

歩けない状態になって、半入院生活。死ぬ気で音楽制作をした結果、

本当に死にそうな状態になったのでこの道は自分の表現する道ではないなと、

病院のベッドの上で頭を冷やしたんだ。

退院してから、大金をかけて創り上げたスタジオ、機材をそのまま、

お別れの挨拶の代りにスタッフに全て譲り、アルバム2枚ぶんの楽曲もスタッフに渡し。
自分は身一つで、青山のベルコモンズの側にあるマンションの小さな一室を、

借りて新しい生活を始めたんだ。

そして、人生で一度も、ショートカットにした事がなかったのに腰まであった

ロングヘアーを一気に、坊主にしてその切った髪の毛を家の側の明治神宮の中の、

川が流れてる側の土に埋めたんだ。

それからはリハビリを兼ねて、墨と半紙で毎日絵を描いて、疲れたら散歩する。

そんな生活を半年間くらいしていた。26歳の誕生日を、迎える頃だったと思う。

 

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人生初の、脱力の2年間が続いた。
音楽制作でエネルギ―を出し切ったあとの、リハビリは時間がかかった。
誰に見せる訳でもない絵を、毎日描き続け、そして疲れたら歩く。

旅に出る。お金がなくなったら、食べられるぶんだけのアルバイトをして働く事よりも、

自分のリハビリに時間をかけていたんだ。
道端のタンポポを1日かけてスケッチしたり、カフェで1日座りながら歩く人々の姿を描いたり、、、

見る物全てを描いて歩いていた。そんな2年間が過ぎたある時、

一般社会ってどんな仕組みなんだろう。ふと、疑問に思ったんだ。

一般社会=銀行というイメージが強かったから、近所の銀行に面接をしに行った所、

すぐ採用されポジションは、営業。よく、採用されたよなと思う。

今まで見てきた世界は、個性、感受性の世界だったけど、銀行は真逆でどれだけ

個性を抑え、感受性を抑え、数字で動き評価される。そんな、見たことない世界だったから、

楽しくて仕方がなかったんだ。
頭の中は、リアルテレビゲームの世界でどれだけ抜け道を探せるかが勝負。
人のしぐさ、歩き方、目の表情を瞬間的に捉え、それに合った対応をし自分のペースにもっていき、

契約をしてもらう。そんな、ゲーム。

そしてなんと成績は半年で結果を出して、東関東のトップクラス営業マンとして表彰を受けた。

鉄の重たい表彰状は、母親が1番驚き周りの友人達も、

「 あの、JUNEが銀行の営業マンのトップクラスだって! 」

と笑いの話のネタに今でも使われている。

2年間、銀行で働きながらも、立体造形の個展を開催したり、展示会に出たりしていて、

本来の自分に戻りつつあった。そんな時、なんとなく一般社会の仕組みがわかり、

もう銀行勤務の必要がないかなと思っていた頃
支店移動の話があったから丁度いいタイミングで、それを機に退職をしたんだ。

銀行では色々な発見があって楽しかったのだけれど、1番面白かった発見が、

数字は宇宙の言語なのではないかな?という発見。毎日ね、数字を見ながら数字の世界にいたら

数字の持つ本来の意味の神秘性を感じるようになっていたんだ。ふとみる、

車のナンバーやたまたま貰った番号札、、、生活の中で数字に取り巻かれているけれど、

そこには宇宙のメッセージが込められている。

銀行で働いたのは、そんな事に気がつきはじめたきっかけでもあったよ。

30歳の冬のお話

 

 

 

 

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奈良の奥地に、古代神道の聖地があってそこで3か月間そこに籠りながら、

精神修行をする場所があるんだって。そこで修業すると、人の病気を手で治せる力を貰えるんだよ。
友人からそんな話を聞いた。
23歳の時の砂漠でのスピリチュアルな出来事から、日本に帰国をしても

色々なお寺や神社に足を運び、宗教や、団体にこだわらず頻繁に1泊、2泊程度の

精神修行の儀式に参加をさせて頂いていたけれど、
3か月間のどっぷりの精神修行となると、1度全ての環境や自分を清算する事になるから少し迷った。
だけど、銀行を辞めた時に丁度このお話を聞いたし、ボランティア活動も

沢山していたからもしも、手で人の病気を治せるならどんどん治してあげたいなと思ったんだ。
だから思い切って飛び込んだんだ。

季節は11月12月1月という、クリスマス、そしてお正月を挟んだ都内にいれば最も楽しい季節。

そんな季節にびっくりするほど何もない、こんな場所が日本にあったんだと思うほど俗社会から

離れたまるで、大昔にタイムスリップしたような環境にいた。

早朝からはじまる宿坊の清掃、儀式、そして素朴な朝食。その後、5時間くらいの授業。

そして、素朴な昼食。その後、神殿の清掃。そのあと、宿坊の清掃。そして、素朴な夕飯。

そして、儀式。消灯。

こんな生活を毎日繰り返すわけだが、さすが精神修行の場。相当、苦しかった。

今まで色々な修羅場をくぐってきたけど、この3カ月を乗り越えたら、私は無敵になるなと実感した。

それくらい、大変な修行だった。

色々とあり、宿坊の部屋ではなく、1人宿坊の物置小屋での生活で奈良の冬は寒いから、

寒さとの戦いも大変だったな。カレンダーを見るのがクセになり、あと何日、、、

と一日に何度も数え時間が経つのがもの凄く遅かった。

この修業の目的は自分の表現するべき形を探すことと、手に人の病を直す力を宿すこと。

それに集中したかったから毎日の儀式や瞑想や授業や清掃の中で自問自答を繰り返していた。
そして、どっぷり神聖な場所にいたせいか、不思議な事が沢山起き出したんだ。
その中でも、神殿の中でまだ暗い早朝に瞑想をしていると、人間の言葉ではない

不思議なメッセージが降りてくるようになった。なんとも、不思議なメッセージの降り方だった。

2か月くらいたったとき、そのメッセージが明確に感じ取れるようになりどうやら、

「 絵を描け 」というシンプルなものだったんだ。

絵。

幼少の頃、言葉を話しはじめる前から鉛筆で描き始めていた。

あまりにも、自分の中で当たり前に存在する表現方法だったから、特別視をした事がなかった。

なんとなく、描いた絵がお金になったからそれで食べてた時もあったし、

だからと言って自分が画家という意識もなく、その道を極める発想もなく、

空気のような存在が「 絵 」だった。

絵か。。。

絵ね。。。

3か月の修行の終わり頃には、「よし。ちゃんと絵を描こう」と、心に決めたんだ。

そして、無事にめちゃくちゃ!大変だった出家修行の3か月も終わり。

その足で、カナダのバンクーバーに向かい、またまた3か月の間バンクーバーに住む姉の家に、

滞在させてもらいながらスケッチブックと、
クレヨンと、水彩を使いながら、ひたすら絵を描く生活をしていた。

奈良の古代神道の聖地には、それからは行ってない。
1つの場所にこだわらず、世界中の聖地を歩きたいし、
1つの宗教にこだわる、性格ではないからかな。

2008年の春先のお話

 

 

 

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奈良、カナダの半年が終わり、離れていたTOKYOに戻った。
画家の父親を持つ友人の家の一室を借りて、
絵を描く環境を揃えて頂いていたから、カナダから戻った次の日から

再び絵をひたすら描く生活をスタートする事ができたんだ。

自分が本当に絵を描くべきならば、コンテストに作品を出したら賞を取るだろうと、

実験的に、様々なコンテストに作品を出してみた。するとなんと続けて入賞をさせてもらった。

奈良で降りたメッセージは本当だったんだ。
そこで、再度確信を持ったんだ。

もしも、自分の表現するべき形が絵から生まれるなら、いい絵を描く事に集中をしていれば、

自然と生かされるだろう。
そう思い、いい絵を描く事だけの為に時間を使い、お金を使い、精神を保ち、環境を選び、

体を創り、生活をし、、、全ての事を「 絵 」を中心にする人生に整え初めていったんだ。

描けば描くほど、周りの人が幸せな笑顔で自分の絵を眺めてくれる。

そして、様々なお仕事や結果が目に見えて残りはじめた時、芝田じゅんにしか描けない、

絵を描きたいという追求心が爆発した。
もっといい絵を描きたい。もっと、人の笑顔をみたい。
もっともっと、いい絵を描く為だけに集中したい。

その流れで、友人の家から独立して自分のアトリエを持ち
24時間365日、「 絵 」を描く為だけの生活を徹底的に始めたんだ。
2009年の春頃のお話。

 

 

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「 絵を描け 」

奈良の修行の場所で降りてきたメッセージ。
そのメッセージに全身全霊の人生がはじまったのだけど、
「 絵 」と言っても幅広い世界がある。同時に、幅広い画材もある。

自分のアトリエに移ってからは、「 絵 」の中の世界で何を描き、

どんな画材で描き、どんな道を歩けばよいのか。
その自問自答を24時間くりかえす、絵を通した精神修行がはじまった。
画材屋と、アトリエの往復でそれ以外は何もしない。
というより、出来ないくらい毎日、集中していた。

「 絵 」の世界の迷路に彷徨い出した感じだったんだ。

この迷路は、リアル精神修行のような迷路で、奈良の修行とはまた違った苦しみ。

集中すると、気がついたら2日寝ないで描いてるのは日々の事でたまに集中しすぎて、

倒れたりもしていた。

そんな生活を続けていたら、体調を崩し2009年のクリスマスイブに電車の中で倒れて、

知らないサラリーマンに助けられ、イブとクリスマスは、

病院で点滴を打つ悲惨な日になってしまった。

そして、2009年2010年は毎月のように病院に通う事になった。

それでも、何を描く事が自分の使命なのか。
その答えが知りたくて、手を止める事が出来なかった。

ありがたい事に、その絵に対する姿勢や生き方を応援してくれる方々のご依頼が増え、

絵だけを描けば生き続けられる自分になっていて、その応援してくれる方々への感謝の想いが、

さらにエネルギーを高めてくれて、もっともっと貪欲に「 いい絵 」を描きたい想いに繋がった。
どれだけ、神聖な絵を描く事が出来るか。
そして、どれだけ人を幸せに導く絵が描けるか。

そのテーマが自分の中で湧き出てきて、たった1枚の絵を描くためだけに全国あちこちの、

神聖な聖地へ向かいそこで、自分の精神を浄化する事にも専念をした。

そこでは、瞑想を行ったり、儀式的な事も受けたりしているのだけど、

そんな事をくりかえしてたら、奈良の修行の時に降りてきたような、異次元のメッセージが、

どんどん受け入れやすくなったんだ。

そして、アトリエで絵を描く時に、真っ白の紙を眺めると絵が浮かびあがるようにもなり、

この感覚は、日々の浄化をしていないと降りてこないから、
生活事態もどれだけ、神聖さを保つかを心がけた生活をしているんだ。

 

 

 

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「 どれだけ 神聖な絵を描けるか 」
「 どれだけ 人を幸せに出来る絵が描けるか 」

この2つのテーマを追及する為に、沢山の神聖な聖地での修行、

そして、絵を描いてる時のリアル修行。
答えがわからず迷路を脱出できない、毎日を積み重ねていた。
不思議な事に、旅に行く聖地はどこが良いのか調べたりしないで、日々神聖な生活をしていると、

夢の中に現れたりするんだ。ある時、また夢の中にある島が浮かんできて見たことない島だったけど、

調べたら広島の宮島。いつ、行くことになるんだろう。
そう思った瞬間に、母親から連絡がきた。
「 ねえ、じゅんちゃん、広島に一緒に行かない? 」

「 1日だけ、1人の自由時間をくれたら一緒に行くよ。 」

「 もちろん、それはわかってるよ。 」

さすが、母親。よく、私の事を分かってくれてる。


そんな流れで、どこにあるかわからない宮島へ人に聞きながら向かった。頂上までは、

普通の登山のような場所で登ってる最中に琵琶湖の竹生島のような、強いエネルギーを感じたんだ。

そこで深い瞑想をし、メッセージを受ける事に集中をした。
そして、降りてきたメッセージは「 愛 」

愛?漠然だなあ。。。

その「 愛 」を描く事をしてゆけば、自然と様々な「 愛 」の表現が出来、愛のエネルギーが、

まるで砂漠の中のオアシスのように自分を取り巻く「 周りの旅人達を癒す水 」になるんだよ。

その愛のエネルギーの湧水が、沢山の旅人を生かす結果と繋がり「 愛の輪 」が自然と広がるんだ。

そして、それが平和にも繋がるから。
だから、「 愛する事に生き、愛を表現し続けなさい 」

以外なメッセージだった。

何の絵を描く、どんな画材を使う、、、そういう事に焦点を合わせていた迷路の答えが、

こんなにもシンプルな事だったんだ。

「 愛 」

 

 

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「愛のカタチ」それをどう表現するべきなのかな。

課題が漠然とし過ぎて、ゴールが見えなかった。
とにかく、人の中に入り人がどんな愛のカタチを必要としているのか研究してみようと

色々なパーティや集まりに積極的に参加をした。

集まる場所場所では、私の不思議なオーラにみんなが興味を示し、

色々と質問してきてそれに対して心から答えていた。見えない世界が見える力を鋭くしていたから、

悩みがあり相談をされると、そういう力を入れ込みながらそれにも心を込めて答えるようにしていた。

そんな状態が続いたある時、いつものように行くべき場所が夢の中に出てきて、

それが宮城県の金華山という離れ島の神聖な山だった。

日本には五大弁才天という、弁才天の神様の神社でも代表的な5ヶ所があり、

厳島神社、竹生島神社、江島神社、 天河神社の4ヶ所はすでに行っていて

最後に残っていたのが金華山だったから気分的には最後の一カ所が

ようやく招いてくれたのだなという気持ちだった。

金華山に訪れたのは2010年の冬、クリスマスの直前だった。

女川から船に乗りたどり着いた小さな島には神社があってその神社の儀式を受けるために

前夜から身を清める為の食事、そのための入浴があり、

布団の他に何もない部屋で1夜を過ごし朝から神殿で儀式を受けるという場所だった。

その島にいると、大きな龍に見つめられているようなそんな視線をずっと感じて、

その龍のエネルギーが凄く強くて怖ささえ感じる程だった。

そして、無事に儀式も終え五大弁才天の最後の弁才天にも挨拶が出来たから、

これから生み出す制作が楽しみだなと心を踊らせながら、絵を描きつづけ春を待って過ごしていた。
そんな矢先に、時代に大きく記される出来事が起きた。
あの金華山のすぐ側が震源地として、起きた東北大震災。

 

 

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2011年3月11日。

今世紀最大の出来事が起きた。その日は、ある霊能者の方の事務所に呼ばれていて

午前中にその方の事務所の2階を半年間貸してあげるから何かやりなさい。

と言われて、更に地球が危険だから地球の為になる活動をしなさい。

と伝えられて、半年間大きな事務所をどうやったら人の為、世の中の為になるかな。

そんな事を考えながら、自分のアトリエに帰っていったんだ。

アトリエにもどるやいなや、グラグラと尋常じゃない揺れ方に終に関東大震災が来たんだと思った。

部屋の物々は全て落ちてきて、建物の綺麗に並べれれた大理石も崩れ落ち、

マンションの前に立ってた電気屋のガラス壁も大きく割れていて、

一体東京がどんな状態になってるのかなと心配で仕方がなかった。

その日は、友人の公演があったからその友人の事が心配になり、

アトリエはほっといて友人の場所へと駆けつけた。
公演はもちろん中止で、帰宅出来ない状態だったから友人を家に泊めてあげて外の様子を伺っていた。

16歳から制作の為にテレビを置かない情報を入れない生活をしていたから、

こういう緊急の時には非常に困った。
パソコンで聴けるラジオしか情報源がなくて、ずっとラジオを流していた。
都内は帰宅難民が列を作って歩いて帰っていて、停電、ラジオではアナウンサーが

感情のままに発信する危険です!の連発で、日本が一大事。
これから、大変な世界になっていくな。。。
誰もがそう感じた出来事だったと思う。

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半年間、この場所で地球の為になる事をしなさい。そう言われて預かった事務所の鍵。

東北大震災の直後でもあり、一体何をしようかと考えた。

考えても仕方がないから、答えを降ろすための瞑想をひたすらやり続けた。
すると、「舞踏小劇場」という言葉が異次元から降りてきたのだ。

舞踏小劇場?!

確かに、その頃交流があった友人が舞踏の踊り手で、舞踏については少しは知っていたその程度で、

劇場をやるとなると全く素人な世界。
ど、どうしようと悩む時間もなく極限にシンプルに考えた。舞台となる板を床に張り、

手前にカーテンをつけて舞台の横に楽屋を作る。そして、箱で入場料金箱を作り、

看板は絵画を描く時に使う木のパネルがあったからそこに、

「芝田じゅん舞踏小劇場」と描いて出来上がり。

誰が踊るの?知り合いもほとんどいなく、どうしよう。
そんな時、新宿の花園神社へ行き、「神様が言う事を一生懸命やろうとしてるのだから、

ちょっとは協力してよ!」と、おさい銭箱の上の鈴をガランガランと鳴り響かせた。


そして、その帰り道にたまたま道端で見つけた中国楽器屋さんに入ると、

そこで中国楽器の演奏会が開かれてた。
気分転換に聴かせてもらいそこで知り合いになった方々をきっかけに、

たまたま舞踏を踊る人と繋がった。

そして舞踏を踊ってる人達に口コミで広がりわずか2週間後に設定した、

オープニングパーティの時には大勢の舞踏家が集まってくれたんだ。

花園神社には、「サンキュー!」とちゃんと、お礼はしにいったよ。
そして、動き始めた劇場ではもちろん最初から全てのスケジュールが埋まった訳ではなかったから、

踊る人がいない日には昔、ダンサーだった感覚を思い出して、自ら踊ったりもした。

舞踏というジャンルは簡単に言うと、歌舞伎の原型や巫女の踊りの原型のような

踊りだと思っていて、その場所の波動を感じてその瞬間に最適な動きを身体でする表現。

基本的に、振り付けがないジャンルでその場で即興的に作り出していくから、

それが本当に出来る踊り手となると、何とも言えない感動的な舞台となるし、

逆にその表現が出来ない人の舞台となると、ただのエゴ的な舞台となり面白くもなんともない。
成功すると、巫女的な要素が入り混じり場所を清めたりする役割になる。

だから、東北大震災の直後に舞踏小劇場っていうメッセージが降りてきたんだなあと

後からよくわかったんだ。
震災直後で、色々なエネルギーが世の中を混乱させていたから、

少しでも浄める事をしなくてはならなかったんだろうと思う。

そんな舞踏小劇場を急にやり始める準備期間の2週間の間に、枕元に女性が立って、

私に一生懸命にお話をして来ていたんだ。
この女性は誰だろう?と疑問に思い聞いてみたら、「おくに」という女性で歌舞伎の創立者である、

出雲のお国が私に会いに来てくれていた。
だから、オープニングの前に出雲まで飛んでいき、出雲大社にこれから始まる劇場が

無事に終わる事をお願いをしに行き、さらにお国のお墓の掃除を3日間やり墓参りをやったんだ。

きっと、お国も見えない次元で劇場に踊りに来てくれていたのだと思う。
今でも時たま出雲には足を運んで、お墓参りもしに行ってるよ。

これが、2011年の夏から秋の半年間のお話。

 

 

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半年間の舞踏小劇場が終わり、かなりエネルギーを消耗していたから息抜きに、

調布にあるその時期気に入っていた温泉に通いながら、

その温泉で瞑想の時間を作っていたんだ。
体が疲れていたから労りながら次の自分の表現のカタチを異次元のメッセージが

降りて来るのを待っていた。

そんなある時、「花でアクセサリーを作りなさい。」

そんなメッセージが降りてきて、花?アクセサリー?と、聞き返したんだ。

劇場に並んでまた、突拍子もない指令が降りてきたなあ。。。と。

2007年頃に立体造形として、手法を学びたく生け花の
資格をとって、師範まで進んだけれど生け花でご飯を食べるまでは自分には出来ない事だと

諦めた事もあり、今更また花の世界に入るのは心が進まなかった。

だけど、メッセージが降りた日に8年ぶりに突然、友人から電話が入り

「じゅんさん、生け花の展示会やらないの?また、みたいでです。」と、

絶妙なタイミングで花の話を振ってきて。
これは、メッセージ通りやるしかないな。そう思って早速制作に入ったんだ。

私がやり始めたのは、生花をドライにしてから樹脂でコーティングする手法でこの手法だと、

10年は花の状態を持たせる事が出来るし、強度もあるからアクセサリーには向いていたんだ。
そして日々、制作を続けていよいよ売るときに気がついた。

これを、どうやって売るのかな?

初歩的な疑問だけど、営業もしたことがないし物販もしたことがなかったから、

全くの素人で発想すら湧かなかった。

とりあえず、小さなテーブルを買ってそれを人通りがある道端に置いて

花のジュエリーを並べて小さな看板を作り、じーっと待ってみた。
通りすぎる人達の、この人可愛そうだわっという同情の目と、

なんだこいつ?という冷やかな目が投げ込まれる中、たまに「かわいいー」と女性が立ち止まり

買ってくれたりもした。炎天下の中、日射病と戦い、的屋のおじさん達に怒られ、

風が吹けば商品が散らばる。そんな、小さな花のジュエリーの出店を3ヶ月くらいやっていた時に。

「君、なんでこんな所でやってるの?」と。

ある、企画会社の方から声をかけられてその方が、

伊勢丹の売り場の催事で出してみない?とお話をくれた。
話を聞くと、室内でテーブルとかも用意してくれ、場所代もいらなく、

売上の30%を渡せば良いだけの話。

もう、炎天下もないし風との戦いもないし、的屋のおじさんから怒られないし、

なんたって有名な伊勢丹だ。断る理由もなく、是非よろしくお願いします!と。

その伊勢丹デビューをきっかけに、様々な企画会社の方からお話を頂いて

毎月どこかしらの百貨店でアクセサリーを売る日々が続き、

花の雑誌にもテレビにも取り上げられて、売上も安定して入れて順調に進んでいた時に

ある疑問が湧き出てきた。
その疑問に対して自問自答を繰り返すようになり、仕事にも力が入らなくなってしまった。

その疑問は、「私が長年探していた、私が表現するべき愛のカタチは果たして花のカタチなのか?」

そんな疑問。

 

 

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自分が探していた愛のカタチ。

東北大震災直後で東京では、癒しが必要だったからきっと花の力が必要だったのだっと思う。

だけど、その花の癒しが長年探しつづけていた自分の愛のカタチなのかな?

きっと、何か違う素材で0からカタチを生み出せる、しかもお守りのような

強いエネルギーが出て身につけた人を守れるような、、、そんな愛のカタチがあるのではないかな?

そんな自問自答を繰り返していた時に、ある都内の神社で深い瞑想をして

花のジュエリー以上にエネルギーが高い表現をするにはどうしたら良いか。

瞑想の中で答えを異次元から降ろした。
すると、「銀を使いなさい。」
そんなメッセージが降りてきて、銀?
これまで興味がなかったし、銀や金となると職人の枠に入るから、簡単には行かないな。。。
しばらく悩んでいたけれど、確かに銀だと0からカタチを生み出すことが出来る。

しかも、素材として太古からお守りとして使用されている素材。

この素材を使って自分が0からカタチを作れるなら、

それこそ探していた答えを実現出来るかもしれない。

人にパワーを与える事が出来るような、そんな愛のカタチのジュエリー。

とりあえず、花のジュエリーで出来たお金で銀を扱えるように技術を手にする為に学校に行こう。

そこから、何が出来るのかとにかく飛び込んでみよう。

情報源が多い比較的大きな学校を選んで、1から修行の日々が始まった。

2012年終わり頃のお話。

 

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銀の世界。
芸術に関する技はこれまでに沢山身につけてきたから、銀の世界もすぐに身につくだろう。

そう簡単に考えていた。

ところが、やり出してみるとこれまで扱ってきた素材とはまるで違う。なんていうか、、、

粒子が動く素材とでも言うのかな。火を使って溶かしながらカタチを作ったり、

糸鋸切りで切ったり、金づちで形状したり、、、
繊細な作業の繰り返しで、集中力や忍耐がかなり必要だった。
素材に遊ばれてる状態がしばらく続き、素材を自分の手でコントロールすることが

かなり難しく、日々葛藤をしていた。
それでも、負けず嫌いな性格と持ち前の集中力で3ヶ月後にはなんとか作品が作れるようになっていた。

もちろん、商品にならない作品だけれど苦労をして自分が作ったジュエリーを

身につけて歩くのは、嬉しい達成感で一杯だった。

銀には無限の可能性が見えたし、自分が作りたい作品の素材には最適な素材かもしれない。

学生証を手に、スケッチブックを片手に毎日大量のジュエリーのカタチを描いて、

自分の愛のカタチを探していたんだ。銀の世界にワクワクが止まらなかったな。

 

 

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銀の技術を身につける学校に行きながら花のジュエリーを販売する展示会を

しばらくやっていたそんな、2014年春にいつも通り期間限定の百貨店の売り場に出ていた。

すると、いつもとは違う不思議なお客さんが話し掛けてきたんだ。

その人は70代の男性で、芸能プロダクションの社長だという。なんか、怪しいな。
だけど、私の商品を気に入り自分のビルの1階に場所があるからそこで店を出しなさい。

いきなりそんな話を振ってきて、これまでの人生でも突拍子もない事が起こりつづけて来たから、

そんなに驚きもせずに話だけは後日聞くようにした。

そして、展示会期間が終わった最終日。
その男性が展示会場に再び現れ、話をする時間が欲しいと。丁度、その頃新宿のアトリエが

荷物で一杯になっていたから、六本木にも1つ事務所を借りていて、

その人のビルの近所ということもあり、じゃあ六本木で会おう。そういう事になった。

日程を設定してカフェで再会。
話を聞くと、あまりに大きな話になっていて、どうやら彼は大金持ちの台湾華僑。

今まで結婚しなかったけど、自分の財産の後継ぎが欲しくて、直感的に君を選んだ。
財産を継ぐには結婚する事で引き渡せるから、僕と結婚してくれ。

いきなりそんな内容。

さすがに、私も混乱して何が何だかわからない状況を冷静に判断する事にとても集中した。
状況を判断する為に、とりあえずいつでも逃げられる道を確保しながら、

しばらく2週間くらいは様子を見ていた。

その2週間は、お金持ちのお金の動かし方を植え付けられる訓練を集中的に

教え込まれている状態で、これまでの自分の感覚を捨てる事をしなくてはならなかった。

それはそれで、面白い話だったから有意義な時間を過ごしたと思う。
だけど、彼が私に全身整形を要求してきて、その上ジュエリーを制作しているのに

高級ブランドのジュエリーを身につけて社交界に出てほしいと言い出した。

それって、、、私じゃないじゃん?

自分がジュエリーを作ってる仕事なのに他社のブランドを身につけるなんて

プライドが許さないし、そもそも全身整形ってなんだよ。
そんな流れになったからこれはもう、手を引かないと私の魂が汚れてしまう。

そう思ってご縁を切った。

だけど、精神的にかなりエネルギーを使ったから疲れきっていて、

神聖なパワーを吸収したく友人にどこかパワーがある場所に連れていって欲しい。

そう、お願いをしたんだ。2014年の春の話。


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パワーのある場所。河口湖とかは?

友人がそう言ってきて、あ、、、河口湖。
そういえば好きな美術館があるからたまに行ってたなあ。

富士山の麓だし、いいかもな。うん、河口湖に連れていって欲しい。
そんな流れで、車に河口湖に向かった。たまたま、山中湖に会社がある不動産の

友人が都内から会社に戻る為に車に同乗してきて、山中湖や河口湖のお話を

色々聞いてるうちに、あ、、、私、河口湖にアトリエを引っ越そう。
突然閃いてしまい、高速道路を走ってる最中に決めてしまった。
新宿にアトリエ、六本木に事務所という生活をしていたけれど、

新宿ではなく河口湖にアトリエを置くとずっと探しつづけてきた、

自分の究極のカタチの作品が生まれるかもしれない。

 

そんな直感が降りてきて友人に、観光の前に河口湖の不動産屋に立ち寄ってほしい。

そう、お願いしたんだ。

長年の付き合いの友人だから、私のそういった突拍子のない行動に慣れていて、

うん、わかった。と、驚きもしなかった。

そして、山中湖の友人を会社に降ろした後に、河口湖の不動産屋に車を走らせ物件を探しに行った。

不動産屋さんの担当者は若いけれどしっかりした女性で、飛び込みで入った

私にも優しく対応してくれて、なんとなく、この方の流れなら良い物件がありそう。
そう感じた。そして、条件を伝えると芝田さんの条件に合うのは2件しかありません。と。

じゃあ、その2件を今すぐ見に行かせて下さい。
と頼み、早速物件の場所に向かうと1件目は入口に入る前から、

ここは嫌だと思いスルーした。
そして、2件目。家に入るとそこには備え付けの神棚があり、

ここに私は神様を置かないといけないんだ。だから、この家にご縁があったんだ。

そうなんとなく感じて、その場で悩みもしないで担当者の女性に、

ここにするのでオーナーに申請してください。と伝えた。


いつも即断即決が自分のスタイルだけれど、この時の早さは高速道路の思いつきから

2時間で引っ越しを決めてしまったのだ。
担当者の人も友人も、びっくりしていたけれど何となく、

新宿から河口湖への移動は絶対的な必然性を感じていたんだ。

 

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新宿から河口湖へ引っ越し。
軽いノリで決めるようなことでもなく、河口湖には知り合いもいないし、

勝手がわからないし、なんて言ったって一軒家だからセキュリティーも危ない。

そんな訳で母親から猛反対を受けてしまったけど、

反対されても契約をした後だからもう、遅かった。

5年間住んで、大量の作品を生み出し思い出も沢山詰まった

新宿のアトリエに別れを告げ、2014年6月。河口湖にアトリエを完全に移動した。

その頃には、銀を扱う技術も充分手についたから、学校にはもう通わず、

本格的に制作できる自分の環境を整えようと思った。
その引っ越しはとても大変で、以外と荷物も多くて整理するのが大変だったけれど、

小さい一軒家を自分のスタイルに変容してとても居心地の良い場所を作ったんだ。

引っ越しすると、色々な問題が出てきて、これまでの人生は制作に響くから

生活感のある事をなるべく避けてやらないで過ごしていたから、

料理とかもやった事がなくて包丁はもちろん、鍋もフライパンも食器もなかった。
だけど、河口湖では都内と違って、外食文化ではなく完全に家で作って食べるように

街が作られていて、これは私も家で作らないといけないなと思い

食器を集めるのをどうしようと悩んでいた。
そんな時にたまたま、ご挨拶で手を合わせに行った神社で話し掛けられた女性が、

元々ホテル経営をしていてそのホテルで使っていた食器が大量にあるから、

好きなだけ持って行きなさい。と、言ってくれてそのホテルはちょっと高級ホテルだったみたいで、

高級なお皿のセットを沢山くれたんだ。また、神様が動いてくれた。

食材は、どこで買って良いか分からなかったけれども隣の家のお母さんが

引っ越ししたその日から毎日のように畑で採れた野菜や果物をおすそ分けしてくれて、

全く食事にも困らなくてすんだ。

こんな感じで河口湖は出だしから、なんだかついていた。

 

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いよいよ河口湖での生活が始まった。六本木の事務所と行ったり来たりの生活だけど、

なるべく河口湖に滞在する時間を増やしていたんだ。

その生活は、凄く刺激的で新鮮で毎日が発見の連続だった。

朝、起きて窓を開けるとそこには蝶々が花の周りを飛んでるし、鳥の鳴き声がいつも響いてる、

見たことがない草木が沢山生えていて、夜になると真っ暗で無音の静けさが漂う。

水は蛇口をひねれば富士山の天然水が出てきて、

空気も明らかに都会とは違う澄んだ空気で、太陽の輝き
目に映る景色が新宿のアトリエで制作していた時とくらべると全く違う。

これなら、自分の納得行く作品が生まれそうだ。そう、感じていたんだ。

朝は、早起きをして湖の周りを散歩してその折り返し地点を大好きな美術である、

オルゴールの美術館にして、午前中は毎日その美術館に通うようになった。
スケッチブックを片手にあちこち歩いていって、

そこで感じた絵やジュエリーのデザインをひたすら描いていた。

そんなあるとき、神社で立ち話をした人に突然、君はこの土地に縁が深い人だと思うから

この山の上にある滝に行くといいよ。そこには神様がいて、きっと君の事を待っているような気がする。

そんな事を言われたから、気になってすぐに行ってみたんだ。

結構急な坂道をひたすら歩いてたどり着いた滝には、確かな神聖さを感じ

河口湖での自分の清め場所にしようと決めたんだ。大きい滝ではないのだけれど

空気が生きている滝というのかな、空気の粒子1つぶ1つぶが生きているという表現が

的確なのかは分からないけれど、そのくらい自分のエネルギーと波長が合ったんだ。
調べてみたら、昔は富士山に登る前にその滝で禊ぎをしてから登山をする場所だったみたいで、

昔から神聖な滝として地元の人に大事にしてこられたみたい。

その滝に行った帰り道、歩いていたら
四つ葉のクローバーを見つけて、大事に摘んで持ち帰ったらなんとその日の内に奇跡が起きたんだ。

芸術関係の会社の人から、2014年にフランスの美術館や画廊、

図書館で発売された現代美術家ファイルに私の作品も体裁されていたのだけれど、

その体裁されていた作家100人の中から私だけが選ばれて、パリのユネスコ本部で紹介されると。

だから、その時に新作も是非ご披露したいという話の連絡が来たんだ。
その話を聞いた時、富士山がユネスコに世界遺産として登録されたから、

きっと富士山の神様が私の事を歓迎してくれて、その証としてユネスコに導いてくれたんだなと思った。

きっと、そうなんだと思う。

さあ、ユネスコに何の作品を飾ってもらおうかな。
制作期間は1ヶ月。頑張らないと!
2014年の8月のお話。

 

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突然やってきたビッグステージに、展示する作品の制作はこれまで

作り上げてきた自分のエネルギーを最大に入れていこう。

そう、気合いをいれたのだけれど入れすぎてしまい、無謀な制作の計画となってしまった。

1000年後にも通用する身につけられる立体造形を
銀で作ろう。

その作品はあまりに力と集中力が必要とされる作品で、毎日身体の全身に

湿布を張りながら火と銀と戦っていた。
期間も迫ってるから、時間がないし焦れば焦るほど、うまくいかないし、

これほど精神力を試された制作は過去にもそうないくらいに、かなり集中した。

そのかいもあり、自分でも納得いく作品となった。
出来上がった時には、一人でアトリエで嬉し涙を流し達成感を味わっていたんだ。
そしてその作品の題名を「MAGMA」とし、作品のイメージは富士山のマグマを現した。

フランスでも好評で、担当会社の方にフランスから「この作家にはずっと作品を作り続けて欲しい。」

とありがたい言葉がユネスコから届き、河口湖に移動した必然性が身に染みて感じた。
場所を変えるって、人生も変わるんだね、改めて体験した瞬間だったよ。
2014年の秋のお話。

 

 

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MAGMAを発表した後、異次元のメッセージをしっかり受けとる事に時間を費やし、

本来、自分が探していた愛のカタチを探す事に集中したいなと思っていた。

今の自分ならきっと出せるはず。

河口湖の湖の脇、そして自分の清めの場所として決めた滝、あちこちで瞑想を

繰り返す日々が続きそこから生まれたデザインをひたすら書き起こしていた。
だけど、自分が納得いくデザインに辿り着けず苦しんでいたんだ。

降りて来るメッセージの次元の領域をもっと上げて行きたく、

その領域を超える事に挑戦していた。
これまで、受けてきたメッセージの出所ではなく、もっと高次元から発信してくる

メッセージをキャッチしたかった。その超えた領域から降りて来るカタチを作品にしたい。

もっと上の次元もっと上、、、そう瞑想を繰り返していた。
そんな事をやっていたら、いよいよ年末を迎え2014年が終わりになろうとしていて、

そんな時に10代からの友人の結婚式に呼ばれて出席したんだ。
集まる友人は10代の時の仲間で、同窓会みたいな結婚式で楽しかったんだけど、

終わり頃に、先輩に一言「この中で結婚してない人、じゅんだけだ。」と大きな声で言われて、

その言葉がなんだか心に突き刺さり、普通に傷がついてしまった。

芸術一筋で走りつづけてきたから、正直恋愛に重心は置いていなく気がついたら年をとってしまっていた。

だから、結婚式で受けた言葉で年末を嫌な気分で迎えてしまったから、

クリスマスも正月も、1人でいることがなんだか辛くなり、急に結婚をしたくなり、

誰でもいいから、すぐに結婚したい。そんな気持ちでお正月を迎え、

頭の中はデザインや絵画よりも、結婚してみせる!で一杯になってしまった。

遅くきた思春期みたいに。

 

 

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2015年のスタートは、結婚してみせる!そんな気持ちでスタートした。

1月はカナダ在住の姉の家に滞在する予定だったから、気分を変えるのに丁度良いなと。
人生で始めて、結婚について真剣に考えていた。
そんな気持ちでジュエリーの作品の絵を描いていたから、

良いデザインは生まれなく集中力にも欠けていた。

カナダでは、沢山の私の絵画の作品が飾られているから、その作品を見てくれた人から

絵画の受注をもらっていて、その絵画制作の時はとても集中した。

けれど、終わるとまた結婚についてずっと考えていたんだ。

自分にはどんな人が合ってるのかな、どんな人なら結婚出来るかな、そういう事で頭が一杯。

恋愛は正直、人生で重要な事ではなくずっと10代から生きるために芸術をやり、

その流れで自分の生み出すべきカタチを追いつづけて一直線に歩いていたから、

感覚的には恋愛については中学生の感覚で止まってしまっていた。
だから、自分の年齢とかも気にしたことがなかったし

結婚の世界は自分には全く関係のない世界だと思っていた。

そんな自分が、初めて結婚したい!と思い、そもそも結婚って何だろうとカナダ滞在の

1ヶ月で色々な友人や知り合いの人達に聞いて歩いて想像を膨らましていた。
結婚について。

 

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日本に帰国したら、片っ端からお見合いをしよう!

と思ってカナダ滞在中にお見合いのセッティングをいくつか用意していた。

準備万端、よし、、、夏前には結婚するんだ。

そう張りきって2月中旬に日本に帰国した。

すると2月後半、お風呂に入っていた時に突然にこれまで感じた事がなかった

次元から大量のメッセージが流れてきた。そしてそれを受信するためにひたすら

お風呂の水に浸かる日々が続いた。
子供のころから、本気でメッセージを受けとる時には水の中にいると受け取りやすくて、

よく水の中で瞑想をしていたのだけれど、この時は水に入れば入るほど沢山の情報が降りてきて、

その出所の次元が明らかにこれまでの次元と違っていて、なんて説明しよう。
繋がらなかったラジオ局が突然繋がり、鮮明にアナウンサーの声が聞こえて来たような、そんな感じ。

質問をすると的確に答えをだしてくるし、自分の魂の元の星にアンテナが

繋がった瞬間だったのだろう。そこには何のくすみが見えない

鮮明なメッセージが日々送られてきた。

そして、絵画、ジュエリーの作品の映像も送られてきて、

送られて来る内容を書き上げる事に集中した。
その受信される内容の中に、北海道の大地のエネルギーも必要としていたから

絵画の下書きの途中で小樽まで飛んで行き、ひたすらメッセージを受信する制作をしていたんだ。
自分の中では、やっと自分が探していた表現するべきカタチを天から

与えてくれてる瞬間だったから、書き留める事に必死だった。
いつ、閉ざされるかわからなかったし、これまでの次元と違いすぎて

受信する自分の受け皿のコントロールが出来なかった。
そんな3月4月が過ぎていて、いつのまにかお見合いの話も流れてしまい、

気がついたら自分の意識も結婚に行かずに、やっと繋がった探していた

アンテナから受けるメッセージを1つも逃がさないように受ける事にかけていたんだ。

あれ、、、結婚は?

 

 

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突然繋がりはじめた、これまでの次元とは別次元の情報

そして、絵画のライン、ジュエリーのデザイン。

これまでの自分のスタイルとは全然異なり、そのラインを書き留める事に

起きている時間全てを費やした。
その書いたラインをよし出来た!と完成させては、異次元から「そのラインはいらない。」

とか、「2ミリ左。」とか、「丸が1つ足りない。」とか、、、、、
ダメだしを受けて書き直しをさせられる。
完成してから言われるから、「こっちは人間で手書きなんだから、

下書きの段階で言ってくれない?」とクレームをつけると、

「ならば、受信能力を高めなさい。」と言い返される。
そんなやりとりの繰り返しで、これまでに描いたことがないスタイルの絵画、

そしてジュエリーのデザインが誕生したんだ。

幾何学的なラインで、ジュエリーは三角形を主体にしたデザイン。

「LOVE」

その出来上がった絵画やジュエリーを見て、これが自分の探していたカタチだったのかも知れない。
人を幸せに出来るお守りの役割になる絵画やジュエリー。
やっと、たどり着いたかもしれない。

やっとこれで人に自信を持って発信出来る作品が出来たという達成感が感じられたので、

早速展示会を開催して人の反応を見てみようと計画を立てたんだ。
2015年夏のお話。

 

 

 

 

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2015年9月。
2006年に初めて展示会を開いた出発の場所、青山の画廊でやろうと思っていたら

当時開催した画廊は閉鎖されていて、その近くの画廊を探したらイメージに凄く合う

画廊を見つけて、そこで開催することにしたんだ。

準備に3ヶ月かけて丁寧に展示会を企画して、作品も1つ1つ丁寧にまとめていった。

これまで受信して制作していた次元とは違う、新たな次元から生み出された

作品の展示会だったから、初心の気持ちになっていた。

来場するお客様は古くからのお客様もいれば、最近出会った知り合いもいて

色々な方々に来てもらえた。
多くを語らず、他の人がこの絵画やジュエリーを見て何を感じるのか?

自分にとっては反応を見る実験でもあり、1人1人にじっくり感想を聞かせて貰った。

すると、ほとんどの方に「お守りみたい。」
という感想を頂いたんだ。

無事、実験的にやった展示会も終わり、人に発信するべきカタチだなと自信もついてた時、
ご縁があってお会いできた宮崎県にある神社の宮司さんに絵画やジュエリーを見せたら、
「良くここまでたどり着いたね。この作品は凄いパワーがあるよ。お守りの役割だね。」

と太鼓判を押してくれて、そういう神職の方に認められたというのは、

自分が長年探していた「愛のカタチ」にやっとたどり着いたんだなと、更に嬉しさが増したんだ。
22年かかってようやく見つけられた愛のカタチ。

これからさき、この絵画やジュエリーがどのように広がって行くのか分からないけれど、

きっと必要な場所へ必然的に旅立つのだろうと思う。
その為に私という、宇宙からしてみたら手足が存在しているわけで

本来の芸術とは自己表現ではなく、ただの受信機にしか過ぎないと思っている。
だから、その受信機のアンテナをクリアにしてノイズを受けないようにする努力を

私のような芸術家が命懸けでやり続ける事が本来の芸術家の仕事であると思うんだ。

その受信した宇宙のエネルギーを作品という具現化した物に変え、

それを身につけたり飾る事により、その人やその場所に宇宙から流れるエネルギーを

受けるアンテナの役割になっているのだと思う。それが本来の芸術作品の役割。そう思う。

 

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やっと、自分がたどり着いた愛のカタチを手に出来た今、
長い旅のお話を誰かにしたくてこの文章を書いてみました。
たった、1つのカタチを作るための長い旅だったけれど、

人生ってねきっとそんなものなんだと思う。

たった1つの「何か」を手に入れる為に、人生の旅がそれぞれに設定をされていて

その「何か」というのは、個人の欲望に見せかけ、個人が欲しいものと認識はしているけれど、

それは実は大きな宇宙のエネルギに動かされている、
個人の「役割」なのだと思うんだ。
それがいわゆる「宿命」であって、みんなみんな自分の「生きている意味」を探しながら

人生の旅をしていると思う。

そのために、宗教に入って特定の神様に祈りを捧げる人もいれば、

色々な人の生き方について情報を手に入れている人もいたり、

旅をしながら自問自答を繰り返す人もいるだろうし、

日々の生活の中に答えを探している人もいるんだろうな。
どんな人にも伝えたいのは、答えは必ず自分の中だけにしかなくて、

自分と宇宙の交信により自分の人生の歩き方が明確になるんだ。

だから、他の人の生き方を見てもそこには正解はなくて、正解は自分のアンテナに受信した

宇宙のメッセージに答えがある。
更に、その宇宙っていうのは色々な星からメッセージが発信されていてその星もみんな異なるし、

例え同じ星から発信されていたとしても、魂の役割が個々に違うから

自分にしか発信されないメッセージが送られて来るんだ。

情報社会の今の時代、自分の中のアンテナをクリアにする努力よりも、

他の発信者の情報を追いかけてしまう傾向があるから、本来自分だけに送られてきている

メッセージを受け取れないでいる人が多い気がする。

その自分だけにに送られて来るメッセージを受け取れるようになれば、

本来の魂の仕事が出来るようになり、自然な流れが生まれその流れに乗ることにより、

摩擦がなくなり障害もなくなり、エネルギーが回りはじめるという現象が起きるんだ。

沢山の人に自分の使命に気付いてそれを大事に生きてほしい。

2015年の年末の今、芝田じゅんは2016年に発表する制作に没頭しています。
2015年で生み出せた「愛のカタチ」これを更に
パワーアップ、スケールアップさせていこうと思う。


 30代後半になった今の私の半生でした。
 
長い文章を読んでくれてありがとうございます。

2015年12月 芝田じゅん